カウンターに立つ社長
2026/10/21 穿越群山
十月六日、函館朝市「十字屋珈琲」の菅原さんが、
四人の日本の仲間とともに台中へ飛んできた。
新光三越で開催される日本商品展に出店するためだ。
その中の一人が、
函館・千秋庵総本家の代表取締役社長、橋 淳央さんである。
千秋庵総本家の創業は1860年。
今年で166年の歴史を数える、
北海道を代表する和菓子の老舗だ。
今回の台湾出店で、
橋さんは奥様と一緒に催事の特設カウンターに立ち、
どら焼きをはじめ、函館から持ってきた伝統の和菓子を販売していた。
日本展の営業時間は長い。
朝の開店準備から夜の閉店まで、
毎日十三時間以上動きっぱなし。
それが十数日続く。
五十六歳の菅原さんでさえ、Facebookに「割とハードな物産展」と書いていたくらいだから、
六十を過ぎた橋さんにとっても、
決して楽な仕事ではなかったはずだ。
何度か一緒に過ごすうちに、
彼には、社長風を吹かせるところが少しもなかった。
ごく自然に僕に声をかけ、雑談をし、
カウンターでほかのスタッフと一緒に忙しく立ち回り、
餡を仕込み、お客さんの相手をする。
だから最初のうち、
僕は橋さんのことを函館の地元の人で、
千秋庵総本家の何代目かの跡取りなのだろうと、ずっと思い込んでいた。
なにしろ日本には、長い歴史を持つ地方の店が数多くあり、
その多くが代々受け継がれてきた家業だ。
菅原さんにしても、函館・十字屋珈琲の五代目である。
だから、
六十代の日本人社長が奥様と一緒にはるばる台湾まで来て、
百貨店の特設カウンターで真剣に餡を仕込んでいる姿を見れば、
自然と家業を継いだ店主だと思い込んでしまう。
ところが家に帰って橋さんの名刺を手に取り、
函館千秋庵のことをネットで調べてみて、
僕は思わず目を見張った。
話は僕の想像とはまるで違っていたのだ。
橋さんは慶應義塾大学を卒業後、
1987年に伊勢丹へ入社した。
海外ブランドのバイヤーなどを経て、伊勢丹松戸店の店長、
グループの不動産事業統括部長、
三越伊勢丹プロパティデザインの代表取締役社長、
そして函館丸井今井の代表取締役社長を歴任している。
日本の百貨店業界に詳しくなければ、この経歴が何を意味するのかピンとこないかもしれない。
三越伊勢丹グループは、
歴史ある二つの百貨店が統合してできた大企業だ。
東京の伊勢丹新宿本店、日本橋三越本店をはじめ、
日本各地で多くの百貨店を運営し、
不動産、商業空間デザイン、金融など、さまざまな事業を傘下に持つ。
台湾の新光三越も、台湾の新光グループと日本の三越の提携で生まれた百貨店である。
そして橋さんは、この大企業でまる37年働き、
複数の関連会社で社長を務めてきたベテラン経営者なのだ。
どの角度から見ても、絵に描いたような日本企業のエリートである。
さらに興味深いのは、
彼が函館出身でもなければ、一族の後継者でもないということだ。
2025年にメディアの取材を受けた際、
橋さんは函館に残ることを選んだ理由を語っている。
彼によれば、
最初は仕事で来ただけだったのに、しばらく暮らすうちに、
すっかりこの街に惚れ込んでしまったのだという。
しかも、それは橋さんに限った話ではない。
以前、菅原さんと酒を飲みながら話していたとき、
彼もかつては一般企業の勤め人だったと聞いた。
2015年前後になって、ようやく十字屋珈琲の経営を引き継ぎ、五代目になったのだという。
つまり二人とも、世襲の跡取りではない。
ほかの企業で長年働いたあと、
縁あって函館の老舗の経営を引き受け、
それまでに積み上げてきた経験で、百年を超える老舗に新しい活力を吹き込んでいるのだ。
いま僕たちが目にしている姿は、彼らの長いキャリアの、次の一章にすぎない。
ただ、橋さんの話には、もう一つ強く印象に残った部分がある。
先ほどのインタビューの中で、
橋さんは伊勢丹時代を振り返り、
自身が伊勢丹松戸店の店長を務めていたこと、
そしてその店が2018年に閉店したことを語っている。
多くの人にとって、
百貨店の閉店は、ニュースの片隅に載る一つの出来事にすぎないかもしれない。
だが当時店長だった橋さんにとって、それはまったく違う意味を持っていたようだ。
彼の回想によれば、
閉店が伝えられた朝礼には約390人の従業員がいて、
その多くが大きな衝撃を受け、事実を受け入れられずにいたという。
その光景は、何年経っても彼の心に焼きついたままだ。
そしてまさにその時から、彼の中に一つの思いが生まれた。
「もう閉めたくない。」
「立て直したい。」
それ以来、「継続」――
つまり企業を存続させ続けることが、橋さんの仕事における大切な理念の一つになった。
台湾の人にとっては、伝統菓子の店が
一世紀半以上も続いているというのは、なかなか想像しにくい。
だが長い歴史があるからといって、経営が順風満帆とは限らない。
2017年、千秋庵総本家は後継者問題に直面し、
全株式を岐阜県の鈴木栄光堂に譲渡した。
鈴木栄光堂はその後、2023年に持株会社体制へ移行し、栄光堂ホールディングスと社名を変更した。
千秋庵総本家は現在、同グループの一員となっている。
2024年に三越伊勢丹グループを退職したとき、
橋さんは、愛着のある函館を離れて東京に戻らなければならないのではと案じていたという。
ところがそこへ、ちょうど千秋庵総本家から声がかかった。
こうして、
六十を過ぎ、日本の大企業で37年にわたり数々の重責を担ってきた百戦錬磨のベテランは、
悠々自適の引退生活を選ぶことなく、
長い歴史と優れた商品を持ちながらも、
経営の成長に壁を抱えていた百年の老舗を引き受け、
再び企業経営という重荷を背負うことになった。
斜陽へと向かう出版業界で、もがき、戦ってきた僕には痛いほどわかる。
時代の大きなうねりの中で伝統産業を再び生き返らせるには、
どれほどの勇気を持って、厳しい試練に立ち向かわなければならないか。
だからこそ僕は2019年、十一年続けた店の看板を思い切って下ろし、
出版小売業を離れて、個人メディアの世界へと転身したのだ。
市場の中で時代の流れに逆らうことを、
「苦しすぎる」と言ったところで、まだ生ぬるい。
インタビューの中で、橋さんはとても興味深い視点を語っている。
日本の伝統的な和菓子は、
実は一種の「Japan Luxury」、
つまり日本文化を体現する高級品として捉えることができる、というのだ。
日本には創業百年を超える和菓子店がいくつもあり、
長い年月をかけて培われた製法と文化を今に伝えている。
中にはヨーロッパの有名ラグジュアリーブランドより古い店さえある。
それなのに、その品々は職人技に見合った評価を市場で得られていないことが多い。
だからこそ、伝統を守るだけでなく、
より多くの人にその価値を改めて知ってもらう必要がある。
これが、橋さんが千秋庵の社長に就任してから力を入れて取り組んでいることの一つだ。
新しいどら焼きの開発や、製造過程で捨てられていたかもしれない材料を活かした菓子づくりに加え、
他地域の百貨店催事にも積極的に出店し、函館千秋庵をより多くの人に知ってもらおうとしている。
2025年には大阪の阪急百貨店に出店し、
北海道以外のお客さんに自分たちの商品を紹介した。
そして2026年、初めて台湾へ。
台中の新光三越で開かれた日本商品展に出店したのだ。
こうしたことを調べ終えてから、
カウンターの前で忙しく立ち働く橋さんの姿を思い返すと、
少しわかる気がする。
なぜこの年齢になって、
これほど心身をすり減らして働くのか。
彼は、166年続く老舗を、より多くのお客さんに知ってもらおうと奮闘しているのだ。

台中新光三越・日本商品展の現場。紺色のキャップをかぶっているのが千秋庵総本家の橋淳央社長。
もちろん、彼自身がこの仕事にどんな意味を見出しているのか、僕にはわからない。
それはいつか一緒に一杯やる機会があったときに、ゆっくり聞いても遅くはないだろう。
けれど、こうした話を知った今、
僕は確かに敬意を抱きながら、
台中新光三越でのこの不思議な出会いを、改めて見つめ直している。
では、僕に何ができるだろう?
僕は大手の食品流通業者でもないし、
日本の百年老舗に経営の知恵を授けられるわけでもない。
それでも、何年も個人メディアを続けてきたコンテンツクリエイターの端くれではある。
この口と、一本のペンを頼りに、厳しい競争の世界をどうにか今日まで生き延びてきた。
ならば、自分のいちばん得意なことから始めよう。
日本展が終わる前、
橋さんから千秋庵総本家の「函館散歩」カステラ饅頭を、大きな箱でひと箱いただいた。
今回台湾に持ってきた看板商品の一つだ。

函館散歩-あんこのお好きな方へ、新しい函館のお土産-|函館 千秋庵総本家
真夜中に甘いものとアイス抹茶という罪悪感を背負いつつ、
まずは冷たい抹茶をシャカシャカと一杯、
続いて冷蔵庫から、あの罪深き深淵を取り出し、
読者の皆さんのために、さっそく開けて食べてみた。

函館散歩・実食写真
しっとり柔らかなカステラ生地が、
北海道十勝・音更町産の「エリモ小豆」を使った、たっぷりのこしあんを包んでいる。
ひと口かじると、まずふわりと広がるのは上品な蜂蜜の香り。
続いて、なめらかな餡。
気がつけば、テーブルの上には空の包装袋が山になっていた……
明日、トレーナーがどんな目で僕を見るのか、今はあまり想像したくない。
以上が、函館千秋庵総本家と橋さんの物語の序章である。
もしいつか函館を旅することがあれば、
おなじみの五稜郭、朝市、八幡坂、赤レンガ倉庫だけでなく、
1860年から続くこの和菓子の老舗にも、ぜひ足を運んでみてほしい。
なにしろ、
僕だけ太るわけにはいかないでしょう?
それに、もしかしたら、
あなたも僕と同じように、この街で
旅の予定にはなかった、面白い人や物語に出会えるかもしれない。
千秋庵総本家公式サイト:函館 千秋庵総本家
参考資料:
日本全国お取り寄せ手帖 2025年1月27日 橋淳央社長インタビュー
https://www.otoriyosetecho.jp/gourmet/54590/
札幌千秋庵 公式note 2025年11月 函館千秋庵・札幌千秋庵 社長対談
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